ミュージシャン・タレントのDAIGOと、第74代内閣総理大臣を務めた竹下登。2人の関係は、単に「元首相と有名芸能人の親族」という言葉だけでは説明できません。竹下登はDAIGOの母方の祖父であり、DAIGO自身もテレビ番組や雑誌のインタビューで、祖父と過ごした幼少期の思い出をたびたび語っています。
なかでも知られているのが、竹下登が首相に就任した際、帰宅した玄関先でDAIGOに「アイムソーリー、僕総理」と声をかけたという逸話です。一方、竹下内閣は1989年に消費税3%を導入した政権でもあり、リクルート事件をめぐる政治責任も問われました。2026年時点で確認できる本人の証言や公的記録を手がかりに、祖父と孫の素顔、家族構成、政治家としての評価を整理します。
【関係を解説】竹下登とDAIGOはどんな祖父と孫だったのか

竹下登とDAIGOは、母方の祖父と孫という関係です。竹下登は1924年2月26日生まれで、1987年11月6日に第74代内閣総理大臣に就任しました。一方、DAIGOは1978年4月8日生まれ。本名は内藤大湖(ないとう・だいご)です。2人が一緒に過ごしたDAIGOの幼少期は、竹下登が日本の政界で大きな影響力を持っていた時代と重なります。首相官邸の歴代内閣資料と、DAIGO本人が文藝春秋で語った回想からも、両者の関係をたどれます。
DAIGOによると、母親は三姉妹の次女で、DAIGO自身は三きょうだいの末っ子。兄と姉に続く、竹下登にとって最後の孫だったといいます。DAIGOは雑誌の寄稿で、祖父から特に可愛がられていたと振り返っています。
幼いDAIGOにとって、祖父の家は一般家庭とは少し違う場所でした。毎週日曜日に東京の祖父宅を訪れるのが習慣で、家には秘書や支援者が出入りし、居間にはその日の予定がびっしり書かれた紙が貼られていたそうです。政治家の家族としての特別な環境を感じる一方、祖父は孫たちと相撲を取ったり、一緒にスキーに出かけたりする存在でもありました。
興味深いのは、DAIGOの回想に登場する竹下登が、首相としての公的な顔だけではないことです。政治や憲法について書斎で話をする一方、孫と遊び、冗談を言う。DAIGOが伝えているのは、歴史上の政治家の姿と、家庭内での祖父の姿が必ずしも同じではなかったということです。
【幼少期のエピソード】「アイムソーリー、僕総理」は本当にあった?
竹下登とDAIGOの関係を象徴する話として広く知られているのが、「アイムソーリー、僕総理」というダジャレです。2024年4月15日放送の日本テレビ系『しゃべくり007』に出演したDAIGOは、祖父が総理大臣になって帰宅した際、玄関先でこの言葉を口にしたと明かしました。翌16日には、entaxなどのメディアが番組で語られたエピソードを報じています。
竹下登が首相に就任したのは1987年11月。1978年生まれのDAIGOは当時9歳で、小学校低学年の時期にあたります。DAIGOの回想では、祖父は家族に大笑いしてもらうつもりだったようですが、家族の反応は「ややウケ」程度だったそうです。首相就任という歴史的な出来事が、家庭内ではユーモラスな思い出として残っている点が印象的です。
もう一つの有名な話は、幼いDAIGOが祖父の秘書に対して、呼び方をめぐって不満を伝えたというものです。周囲から「ダイゴちゃん」と呼ばれることが多かったDAIGOは、ある秘書から「ダイゴ」と呼び捨てにされたことを祖父に訴えました。すると、翌日にはその秘書も「ダイゴちゃん」と呼ぶようになったといいます。DAIGOは2017年や2020年のテレビ出演でも、この話を振り返っています。
DAIGO自身は、祖父が総理大臣だったことで、幼い頃は少し調子に乗っていたと率直に話しています。権力者の孫という立場を意識し、周囲の対応に敏感になっていたのでしょう。ただし、このエピソードから読み取れるのは、あくまでDAIGOが語った子ども時代の経験です。竹下登が孫の希望をどのように受け止めていたのか、政治家としての権限を家庭でどう使っていたのかまで、逸話だけで一般化することはできません。
2026年1月30日付のJ-CASTニュースでも、DAIGOが祖父の行きつけだった店を訪れ、幼い頃の思い出を語った様子が報じられました。そこでもDAIGOは、祖父を優しい「普通のおじいちゃん」として振り返り、相撲を取ったときには孫相手でも勝ち負けにこだわっていたと話しています。2026年時点でも、こうした家庭内のエピソードが竹下登を知る手がかりになっています。
【年表で整理】竹下登とDAIGO、それぞれの経歴と主な出来事
2人の関係を正確に理解するには、竹下登の政治経歴と、DAIGOの成長過程を分けて見る必要があります。祖父が首相だった時期と、孫が芸能活動を本格化させた時期には大きな隔たりがあります。
| 時期 | 竹下登の経歴・出来事 | DAIGO・家族に関する出来事 |
|---|---|---|
| 1924年 | 2月26日、島根県に生まれる。 | まだ生まれていない。 |
| 1958年 | 衆議院議員に初当選。 | まだ生まれていない。 |
| 1985年 | 大蔵大臣としてプラザ合意に関与。 | DAIGOは7歳。 |
| 1987年11月 | 第74代内閣総理大臣に就任。 | DAIGOは9歳。祖父の首相就任時のダジャレを後年語る。 |
| 1989年4月 | 竹下内閣の下で消費税3%が導入される。 | DAIGOは10歳。消費税導入に関する本人の個人的な記憶とは区別が必要。 |
| 1989年6月 | 6月3日、内閣総辞職。 | DAIGOは小学生。 |
| 2000年6月 | 6月19日、76歳で死去。 | DAIGOは22歳。 |
| 2024年 | 歴史上の元首相として評価・検証が続く。 | テレビ番組や雑誌で祖父との思い出を語る。 |
| 2026年 | 首相在任期や政策が歴史的な検証対象となっている。 | 祖父の思い出に関する新たな報道が続く。 |
竹下登の首相在任期間は1987年11月6日から1989年6月3日までの576日間です。2000年6月19日に76歳で亡くなりました。首相官邸の歴代内閣資料や人物事典などに記録された経歴と、DAIGO本人の回想を照らし合わせると、祖父と孫の関係がどの時期に築かれたのかが分かります。
【消費税3%と政治実績】竹下登は何を残し、なぜ退陣したのか
竹下登を政治家として評価する際、避けて通れないのが1989年の消費税導入です。竹下内閣は税制改革を進め、1988年に消費税導入を柱とする税制改革関連法を成立させました。財務省の税制解説によると、消費税は1989年4月から税率3%で導入されています。現在の税率と比べると低く見えますが、日本で広く消費に課税する仕組みが始まった転換点でした。
この改革の背景には、所得税や法人税などを含む税体系を見直し、所得・消費・資産の間で税負担のバランスを整える狙いがありました。消費に広く負担を求める一方、所得税の負担軽減なども組み合わせる構想でした。しかし、消費税そのものへの反発は強く、家計への影響を懸念する声や、税制改革をめぐる政治的な対立が政権運営を難しくしました。
ここで注意したいのは、DAIGOが語った幼少期の思い出と、消費税導入をめぐる政治史は別の話だという点です。「アイムソーリー、僕総理」は祖父の家庭内での一面を伝える逸話ですが、消費税についてDAIGOが当時どのような体験をしたか、あるいは政策をどう評価しているかを示す証言ではありません。家族の思い出を政治的な賛否の根拠にするのは適切ではありません。
竹下登の政治実績は、消費税だけではありません。地方自治体に地域振興のための資金を配分した「ふるさと創生事業」も代表的な施策です。加えて、大蔵大臣時代には1985年9月22日のプラザ合意に関与しました。プラザ合意は、日本、米国、英国、西ドイツ、フランスの5カ国が、ドル高是正に向けて協調することで合意した国際的な金融政策上の節目です。
プラザ合意後には急速な円高が進み、日本の輸出産業などに大きな影響を与えました。為替調整は国際経済の不均衡是正を目指したものでしたが、その後の日本経済への影響をどう評価するかについては、さまざまな見方があります。竹下登の実績を考える際も、合意への参加という外交・金融上の役割と、その後の経済への影響を分けて考えることが必要です。
一方、竹下内閣の評価を大きく損なったのがリクルート事件です。税制改革をめぐる政治的な緊張が高まるなかで疑惑が拡大し、閣僚の辞任も発生しました。消費税導入への国民の不満も重なり、竹下内閣は1989年6月3日に総辞職しています。政策を実現する調整力があった一方、政治と金をめぐる問題への対応が政権の信頼を揺るがしたという評価が残っています。
【家族構成と姉弟関係】影木栄貴とDAIGOはどんな関係?
竹下登の家族について知るうえで、DAIGOの姉で漫画家の影木栄貴(えいき・えいき)の存在も欠かせない。影木栄貴は竹下登の孫であり、DAIGOとは7歳差の姉弟です。CHANTO WEBの2024年のインタビューでは、幼い頃は年齢差があって交流が限られていたものの、DAIGOが音楽活動を始めてから、歌詞づくりの助言などを通じて話す機会が増えたと語っています。
影木栄貴は、竹下登の孫として注目されることについて、かつては複雑な思いもあったと明かしています。漫画家として自分の力で仕事を築こうとするなかで、祖父の知名度が先に立つことに抵抗を感じていたそうです。こうした証言は、著名な政治家の家族であることが、必ずしも本人の望む形で受け止められるとは限らないことを示しています。
DAIGO自身も、祖父の存在を芸能活動の中心に置いてきたわけではありません。ミュージシャンとしての活動に加え、テレビのバラエティー番組や司会など、幅広い仕事を通じて知名度を築いてきました。祖父との関係が知られることは大きな話題性につながりますが、本人のキャリアを理解するには、音楽活動やタレントとしての仕事もあわせて見る必要があります。
なお、DAIGOの本名は内藤大湖です。文藝春秋での回想によると、兄の博文や姉の栄子には政治家にちなむ名付けの由来がある一方、DAIGOの「大湖」は両親が付けた名前だといいます。祖父が著名な政治家だったことと、孫の名前をすべて祖父が決めたというイメージは、必ずしも一致しません。
また、竹下登は2000年6月19日に亡くなっています。DAIGOが祖父との思い出をテレビや雑誌で語る際には、本人の記憶や家族の証言が中心です。報道で確認できる家族のエピソードをたどることはできますが、家族間のすべての会話や、私生活の細部までが公に明らかになっているわけではありません。
【竹下登 daigo】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:竹下登とDAIGOはどのような関係ですか? A1:竹下登はDAIGOの母方の祖父です。DAIGOは三きょうだいの末っ子で、祖父に可愛がられた幼少期の思い出をテレビ番組や雑誌で語っています。
Q2:「アイムソーリー、僕総理」は本当に竹下登が言ったのですか? A2:DAIGO本人が、2024年4月放送の『しゃべくり007』などで、祖父が首相就任後に帰宅した際、玄関先でこのダジャレを口にしたと語っています。本人の回想に基づくエピソードとして報じられています。
Q3:DAIGOの本名は何ですか? A3:本名は内藤大湖(ないとう・だいご)です。DAIGO本人の回想では、「大湖」という名前は両親が付けたものと説明されています。
Q4:竹下登が首相だったとき、消費税はいくらでしたか? A4:1989年4月に導入された消費税の税率は3%でした。竹下内閣の主要な政策の一つですが、導入への反発やリクルート事件をめぐる政治問題も、政権の評価に大きく影響しました。
Q5:DAIGOは竹下登の死をいつ経験したのですか? A5:竹下登は2000年6月19日に76歳で亡くなりました。DAIGOは1978年生まれなので、当時22歳でした。
まとめ:祖父の素顔と政治家としての評価は分けて考える
竹下登とDAIGOの関係は、元首相と芸能人という肩書きだけでは捉えきれません。DAIGOが語った「アイムソーリー、僕総理」という逸話や、秘書への呼び方を祖父に訴えた話からは、忙しい政治家でありながら孫と過ごす時間を持っていた竹下登の家庭内での姿が浮かび上がります。
一方、政治家としての竹下登には、1989年の消費税3%導入、「ふるさと創生事業」、大蔵大臣時代のプラザ合意への関与といった実績があります。同時に、リクルート事件をめぐる疑惑や消費税への反発によって、首相としての評価には厳しい側面も残っています。
2026年時点で竹下登とDAIGOの関係を理解する際の判断基準は、家族の思い出と政治的な評価を混同しないことです。祖父の優しさを伝える逸話は、家庭人としての一面を知る手がかりになります。しかし、政策の成果や政治責任を評価するには、公的記録や当時の報道、歴史研究を確認する必要があります。孫が語る個人的な記憶と、元首相が日本社会に残した政治的な影響。その両方を分けて見ることで、竹下登という人物とDAIGOとの関係を、より立体的に理解できます。