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日馬富士の現在は?第70代横綱の経歴と引退、慈善活動の全貌を2026年最新解説

栗原 瑞穂 栗原 瑞穂 • 更新: • 公開: • 読了約 15 分
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大相撲の第70代横綱・日馬富士公平(はるまふじ・こうへい)さんは、幕内優勝9回を誇り、鋭い立ち合いとスピードを武器に土俵を沸かせた元横綱です。一方、2017年11月には貴ノ岩への暴行問題の責任を取って現役を引退。その後はモンゴルで教育事業に取り組み、子どもたちの成長を支える活動を続けています。

2026年10月現在、日馬富士さんの近況として注目されるのが、モンゴルの「新モンゴル日馬富士学園」の理事長としての活動です。2026年9月には、日本式教育を取り入れた同学園と山形県との交流が報じられました。現役時代の輝かしい実績、安馬からの改名、引退の経緯、ハートセービングプロジェクト(HSP)を通じた医療支援まで、公式記録と報道をもとに人物像を整理します。

【日馬富士はどんな横綱だったのか】優勝9回を支えた実力と人物像

日馬富士

日馬富士は1984年4月14日生まれ、モンゴル国出身の元大相撲力士です。本名はダワーニャム・ビャンバドルジ。現役時代は伊勢ヶ濱部屋に所属し、最高位は第70代横綱でした。

日本相撲協会の公式プロフィールによると、身長は186センチ、体重は137キロ。横綱としては比較的軽量ながら、鋭い踏み込みと素早い攻めを持ち味とし、幕内優勝9回を記録しています。通算成績は827勝444敗85休、幕内成績は712勝373敗85休です。

得意技は右四つ・寄り。相手の懐に素早く入り、組み止めてから攻め切る相撲を得意としていました。単純な体格差で押し切るのではなく、立ち合いの速さや攻めの判断、技術を組み合わせて大型力士にも対抗した点が特徴です。

2012年には、名古屋場所と秋場所で2場所連続全勝優勝を果たし、横綱昇進を決めました。第70代横綱としての在位期間は2012年11月場所から2017年11月場所まで。横綱としての実績を評価するうえでは、優勝回数だけでなく、軽量級の体格を補う技術とスピードも押さえておきたいポイントです。

ただし、横綱の評価は土俵上の成績だけでは完結しません。日馬富士は優れた競技実績を残した一方、現役最後の時期に暴行問題を起こし、引退に至りました。競技者としての功績と、不祥事によって失われた信頼の双方を理解することが、人物像を正しく捉える出発点になります。

【安馬から日馬富士へ】改名の理由と横綱昇進までの経歴を年表で整理

日馬富士の歩みは、2001年の初土俵から始まります。モンゴルで相撲に親しみ、16歳で来日した後、安治川部屋に入門。着実に番付を上げ、大関昇進を機に四股名を改め、2012年に横綱へと到達しました。

日本相撲協会の歴代横綱プロフィールや力士記録に基づき、主な節目をまとめました。

時期 出来事 主なポイント
1984年4月14日 モンゴルで誕生 本名はダワーニャム・ビャンバドルジ
2001年1月場所 初土俵 安治川部屋に入門し、四股名は安馬
2004年3月場所 新十両 関取としての地位を獲得
2004年11月場所 新入幕 幕内力士として活躍を始める
2008年11月場所まで 安馬の四股名で出場 大関昇進を機に日馬富士へ改名
2009年1月場所 大関昇進 四股名を日馬富士に改めた時期
2012年11月場所 横綱昇進 2場所連続全勝優勝を経て第70代横綱に
2017年11月29日 現役引退 貴ノ岩への暴行問題の責任を取って引退
2018年9月 新モンゴル日馬富士学園が開校 引退後の教育事業の大きな柱となる
2026年9月 日本との教育交流が報道される 山形県の関係者が学園を訪問し、留学交流などを推進

「安馬」から「日馬富士」への改名は、大関昇進に伴う節目です。日本相撲協会の記録でも、四股名の履歴は「安馬→日馬富士」と記載されています。

また、「公平」という名前は、自身が「日本の父」と慕っていた後援会長の小巻公平さんにちなんだものです。相撲界での名前には、本人の歩みだけでなく、師匠や後援者との関係も反映されています。

横綱昇進後は優勝9回という実績を積み上げました。三賞は殊勲賞4回、敢闘賞1回、技能賞5回。公式記録からも、優勝争いでの強さだけでなく、技術面で高い評価を受けていたことが分かります。

【相撲の原点】朝青龍・朝赤龍・時天空らと過ごしたモンゴル時代

日馬富士の相撲人生を理解するうえで、幼少期の環境も注目です。父親は警察官で、モンゴル相撲のブフでは国家ザーンの地位にあった人物です。日馬富士は3人兄弟の末っ子として育ち、兄たちと相撲を取ることが遊びだったとされています。

幼い頃から負けん気が強く、柔道にも取り組んでいました。ウランバートルの柔道クラブでは、後に大相撲で活躍する朝青龍、朝赤龍、時天空らと稽古をしていたことが伝えられています。

こうしたつながりは、当時のモンゴルで柔道や相撲に親しんだ若者たちが、日本の大相撲へ進む流れを考えるうえでも興味深いものです。ただし、同じ道場で稽古したことと、後年の力士としての成績や行動は別々に評価する必要があります。

日馬富士は2000年7月、モンゴルで開かれた相撲大会に出場したことをきっかけにスカウトされ、同年9月に来日しました。翌2001年初場所で初土俵を踏み、関取、幕内、大関、横綱へと番付を上げていきます。

186センチ、137キロという体格で幕内の頂点に立った背景には、幼少期から培った身体操作や、相手の動きに素早く反応する力があったと考えられます。得意技の右四つと寄りは、その技術を土俵上で発揮するための重要な武器でした。

【2017年11月の引退】貴ノ岩への暴行問題と決断までの経緯

日馬富士の引退を語るうえで避けられないのが、2017年10月の秋巡業中に起きた貴ノ岩への暴行問題です。日本相撲協会や当時の報道によると、鳥取市内の酒席で日馬富士が貴ノ岩に暴行し、頭部にけがを負わせたことが、同年11月14日に大きく報じられました。

当初はビール瓶で殴ったとの報道もありましたが、日馬富士はビール瓶の使用を否定する一方、貴ノ岩を殴ったこと自体は認めています。事件をめぐっては鳥取県警の捜査と日本相撲協会の危機管理委員会による調査が進められました。

その後、日馬富士は11月29日に引退届を提出し、受理されました。同日の記者会見では、横綱としての責任に触れ、相撲ファンや関係者に謝罪しています。日刊スポーツなどの当時の報道でも、暴行を認めたうえで責任を取る形で引退を決断した経緯が伝えられています。

引退の背景には、競技者としての実績とは別に、横綱に求められる品格や自制という問題がありました。横綱は番付の最高位にある力士であり、土俵上の勝敗だけでなく、社会的な模範としての振る舞いも問われます。優勝9回という実績があっても、暴行問題の責任が消えるわけではありません。

一方、事件を説明する際には、確認された事実と、当初の報道内容や周辺の論争を混同しないことも大切です。暴行があったことを本人が認めて引退したという経緯は明確ですが、酒席にいた関係者の言動や協会の対応をめぐっては、当時さまざまな報道が続きました。

日馬富士の現役生活は、横綱昇進から約5年で幕を閉じました。競技面で築いた功績と、最後の不祥事によって残った問題は、切り離して整理する必要があります。

【慈善活動と評判】ハートセービングプロジェクトによるモンゴル医療支援

日馬富士は現役時代から、相撲以外の社会貢献活動にも取り組んできました。その代表例が、先天性心疾患のあるモンゴルの子どもたちを支援する認定NPO法人「ハートセービングプロジェクト(HSP)」への協力です。

HSPは、日本とモンゴルの医療関係者が連携し、心臓病の子どもたちの診断や治療、現地医療スタッフの育成などを行う団体です。団体の公式サイトによると、医療支援活動は2001年に始まり、2008年には日馬富士本人も活動に参加したと紹介されています。

日馬富士はHSPの活動を知った際、故郷の子どもたちのために日本の医師たちが献身的に支援していることに感銘を受け、自分にできることを通じて恩返ししたいと考えたことを、団体のインタビューで語っています。

現役時代には懸賞金をモンゴル地方での検診活動の費用に充てるなど、医療支援に協力してきました。日本の小児循環器病棟への慰問活動も行っていたとされます。医療へのアクセスが難しい地域では、診断を受けるための移動費や滞在費も家族の負担となります。こうした障壁を減らす活動は、病気の早期発見や治療機会の確保につながります。

HSPが2026年度の寄付募集資料で公表した2025年の活動実績では、新モンゴル日馬富士学園での学校検診を除き、心エコー検査764人、心臓カテーテル治療・検査34件、地方検診2回を実施したと報告されています。これはHSP全体の活動実績であり、日馬富士個人の実績を示す数字ではありませんが、彼が支援してきた医療活動の現在地を知る手がかりになります。

医療支援以外にも、日馬富士はウランバートルで視覚・聴覚障害者のための雇用施設を運営するなど、社会的な支援活動に取り組んできました。地方巡業で不登校の子どもに声をかけ、一緒に写真を撮ったことをきっかけに、その子が相撲に関心を持ち、学校へ通うようになったというエピソードも伝えられています。

こうした活動は、慈善活動に対する評価を考える際の具体的な材料になります。ただし、社会貢献への取り組みと、2017年の暴行問題に対する評価は別のものです。医療支援や教育活動を続けていることは事実として評価できる一方、それによって過去の不祥事が帳消しになるわけではありません。

【日馬富士の現在】2026年は新モンゴル日馬富士学園の理事長として活動

引退後の日馬富士が力を注いでいるのが、モンゴルでの教育事業です。2017年に設立された新モンゴル日馬富士学園は、2018年9月に開校した幼稚園から高校までの一貫教育校で、日馬富士は理事長を務めています。

同学園は日本式教育を取り入れ、学力だけでなく、礼儀や道徳、仲間と協力する力を育てることにも重点を置いています。校内には武道場やレスリング場、土俵などが設けられ、部活動を通じて生徒の成長を支える環境も整えられています。

2026年9月17日付の山形放送の報道では、同学園には幼稚園から高校まで約2000人が在籍していると紹介されました。山形県の関係者が学校を訪れ、日本式の教育や給食の取り組みを取材したほか、山形大学への留学を視野に入れた説明会も開かれました。

日馬富士は同報道で、モンゴルの子どもたちと日本の子どもたちが出会う機会をつくり、同じ目標に向かって努力できるようにしたいという趣旨を語っています。これは単なる学校経営にとどまらず、教育を通じて両国の交流を広げようとする取り組みです。

2026年4月には、同学園と秋田県立大学の交流をめぐる報道もありました。学生や教員の交流を進め、将来的には学園の生徒が留学生として秋田で学ぶことも計画されています。教育機関同士の連携を通じて、生徒の進学や国際経験の選択肢を広げる動きが進んでいます。

加えて、2026年5月には広島テレビが、広島県安芸高田市の小学校で使われていた机と椅子400セットをモンゴルの学校へ寄贈する計画を報じました。日馬富士は市長を表敬訪問し、寄贈される備品について、モンゴルの子どもたちが夢に向かって勉強するために役立てたいという趣旨を述べています。当時の報道では、備品は夏までに届ける予定とされました。

このように、2026年の日馬富士の近況は、学校運営、日本の教育機関との連携、学習環境の整備といった具体的な活動を中心に確認できます。相撲界に復帰して力士として活動しているのではなく、現役時代に培った知名度や日本とのつながりを生かし、教育の分野で新たな役割を担っているのが現在の姿です。

日馬富士は、母国モンゴルを「母国」、長く暮らした日本を恩返ししたい相手として捉えてきたことを、過去のインタビューで語っています。相撲で築いた日本との縁を、子どもたちの教育や国際交流につなげることが、引退後の活動の大きな軸になっています。

【日馬富士】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:日馬富士の本名は何ですか?
A1:本名はダワーニャム・ビャンバドルジです。日本相撲協会の公式プロフィールでは、四股名の履歴は「安馬→日馬富士」と記載されています。

Q2:日馬富士はなぜ2017年に引退したのですか?
A2:2017年10月の秋巡業中に起きた貴ノ岩への暴行問題について、本人が暴行を認めて謝罪し、横綱としての責任を取る形で同年11月29日に現役を引退しました。

Q3:日馬富士は2026年現在、何をしていますか?
A3:モンゴルの新モンゴル日馬富士学園で理事長を務めています。2026年には山形県などとの教育交流や、学校設備の整備に関する活動が報じられました。

まとめ:日馬富士の功績と現在を理解するための判断基準

日馬富士は、第70代横綱として幕内優勝9回を記録した実力者です。安馬から日馬富士へと改名し、鋭い立ち合いと右四つ・寄りを武器に横綱まで上り詰めました。その競技実績は、日本相撲協会の公式記録に残されています。

一方、2017年11月の引退は、貴ノ岩への暴行問題に対する責任を取ったものでした。横綱としての功績を評価する際にも、この出来事を切り離して考えることはできません。

引退後はモンゴルで教育事業に取り組み、HSPを通じた医療支援への協力や、子どもたちの学習環境を整える活動にも関わってきました。2026年には、新モンゴル日馬富士学園を拠点とする日本との教育交流が報じられています。

日馬富士の人物像を知るうえで大切なのは、相撲の実績、引退に至った経緯、そして引退後の社会貢献を、それぞれ具体的な事実に基づいて見ることです。過去の不祥事を軽視せず、同時に現在の教育活動や医療支援の実態も把握する。その両面から捉えることで、横綱としての歩みと、引退後に選んだ道の両方が見えてきます。

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トレンドリサーチャー 栗原 瑞穂
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